◆煮込みの旨味◆
店内はどこか田舎の土間にでも迷い込んだような心地良さ、老舗の味はもちろん
その心地良さが人伝(ひとづて)に旅先の小沢氏をそこに呼んだのでしょう。
真夏の昼下がり、立ち寄ったある蕎麦(そば)屋さんで兄、厨房さんがラジオ番組
「小沢昭一の小沢昭一的こころ」のご本人に出合った時のお話なのです。
他にお客様も無く、姿を見せた初老の主人が氏に殊更気づかうでもなく蕎麦を置き、
次にうわずった兄の注文にも軽く頷くとまた奥に消えたのでした。
どことなくちょっととぼけたあの表情、そんな氏に声を掛けるその機を逃した兄なのです。
他方、向かい合う離れ席で中腰のまま固まってしまった五分刈り男、その人となりを
人を観(み)るに長(た)けた熟年の俳優が見抜けぬ筈もないのです。
やがて腰の引けた兄の心に響いてきたのが絶妙な蕎麦啜(すす)り、“ソバ芸”なのでした。
まず「ズズーッ」とおもむろにうながすように、そして強く「ズッ、ズッ」と諫(いさ)める如く
諭(さと)すが如く。次にまた誘うように「ズーッ」いなすように「ズーッ」
番組でいつもネタになる小心な日本のお父さんとして填役(はまりやく)、ハナレ席に
跳びひぞって事を覗(うかが)う、そんな兄に捧げられたソバ芸なのでした。
厭味無く、あの方らしい茶めっ気たっぷり・・・。
この時以来兄は「小沢氏と当店のホルモン煮込がイメージとして重なる、どちらもすこぶる
旨いは旨いが上品さが売りではないな」と言うのです。なんと、まあ・・・。
未だ氏が来店されたり、当店のホルモン煮込を召し上がったという事実は残念ながら無い
のですが、「上ネタのホルモン煮込?僕ねどっちかと言うと反対ネタが・・・」小沢氏ならそう
仰りかねないのです。
兄の言う“ソバ芸”(?)なるものが本当に存在したのか。
お会いしたのは本当なのです。でも兄のこと、真夏に小沢昭一という強烈な個性の毒牙に
かかって熱にうなされただけなのかも。