◆ビーナスの商人◆
敢えて上質の<ヒレ肉>を、えも言われぬ穏やかなモナ・リザに、
<カルピ>を清廉かつ妖艶なルクレチア・ボルジアに例えんとすれば、
差詰<ロース>はミロのビーナスと呼ぶに相応(ふさわ)しい代物なのです。
失った」「いや初めから存在しない」と諸説在るビーナスの腕(かいな)。
しかし両腕を欠いたビーナスの美がそれ自体完璧なのは皆様異論の無きところ。
“リブロース”から“サーロイン”に到る他を圧倒する存在感がビーナスの美を
彷彿 とさせるのです。
儀式めいた物腰で運び入れ横たえた彼女に自ら注ぐ畏敬と信頼の眼差し。
「如何です」とばかりに顧客に眼を移す間の取り方。
出入りのお肉屋さん、名うての商人なのです。
気乗りせぬ風を装っていた厨房さん、もうすでに感嘆の呻き声が漏れる
のを堪(こら)えている様なのです。色合い、肌理(きめ)の細かさ・・・。
指先にシットリからみ程なく溶けゆく脂質。
ついうっかり「良いね」と一言。
「良いでしょう」と商人にんまり一言。
“しまった”とばかり我に返って「抜けてるかな」と値引きを促す探りをいれても、
「抜けてます、徹頭徹尾抜けてます」と、そうはいかぬと確たる姿勢。
それではと「足はとても短いね」と厨房さん,一転懐柔策で攻めてみる。
「短いですよ。誰しも納得の短さです」と類い稀なるビーナス故に商人強気で
未だ譲らず。
なんだか暗に私を揶揄(やゆ)したような、まず「抜けてる」とは“リブロース”の
芸術的と思える程の霜降りが、連なる最後尾の“サーロイン”までしっかり浸透して
いるという事なのです。また「短い足」とは廃りがなく歩度まりが良い、つまりは
お買い得を意味するのです。
貴方はモナ・リザ派 それともルクレチア
やはり豊穣(ほうじょう)のビーナスですか。