◆かたくなな愛◆
ヒレには目がないのです。いえいえ私がヒレに目がないのではないのです。
ヒレは私にとって高嶺の花。勿論ヒレに目のない多くのお客様。
これはあるヒレにまつわる悲恋の物語なのです。
ロースやバラに囲まれて内懐に抱かれ育ったヒレには、正目(まさめ)も逆目
(さかめ)もないのです。どう包丁入れようとまったく障りは無いのです。
“何とも無垢な”とか“いやむしろ知的なほどに”などと喩える外無き柔らかさ。
その意味でヒレには目がないのです。
そんなヒレへの思い入れ、本人知ってか知らでか盲目の紛(まご)うことなき愛なのです。
師走の街に人溢れ、私共フロアーもお客様への対応が充分に叶わぬ程の夜でした。
あ〜、愛の破局のお膳立て。
予定のヒレを捌(さば)き尽くして次なるヒレに手を染めたのです。
注文受けてやおら包丁入れるこだわりが裏目に出ました。確かに急(せ)いてもいた
のです。
でも見映(みば)の秀でた高値のヒレゆえ露疑う事も無く、あろうことか
吟味の鉄則、愛の証、“抑え難く愛(いとお)しく触れる”のを怠ったのです。
更に“あたり”と称す予期せぬ硬さを切り手に伝える“鈍丁”を、ありきたりな切れ味
冴える包丁に握り変えてもいたのです。
ヒレは、常と異なるおざなりで冷たい仕打ちに不信と恥辱に苛まれ、
やがて怒りを悟られぬようこと静かに身構えた、とでも言うのでしょうか。
こうして当店のヒレにあるまじき前代未聞、噛みつかんばかりに頑なな二枚のヒレが
お客様のテーブルに運ばれたのでした。
妹の私には何かと口やかましく厳(いか)めしい厨房さん、程なく事の真相に気づき、
その顔が未曾有の失態に色も失せ“べそ”かかんばかりなのです。
この日この愛、ひれ伏す能わずおざなりな愛。